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東京高等裁判所 平成3年(行コ)64号 判決 1992年12月22日

控訴人

中央労働委員会

右代表者会長

萩澤清彦

右指定代理人

北川俊夫

中島芙美子

惠藤宣昭

中村悟雄

控訴人補助参加人

小川邦夫

右訴訟代理人弁護士

石野隆春

永瀬精一

山口英資

被控訴人

東京焼結金属株式会社

右代表者代表取締役

池上順作

右訴訟代理人弁護士

渡辺修

吉沢貞男

山西克彦

冨田武夫

伊藤昌毅

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用中、補助参加によって生じた分は補助参加人の負担とし、その余は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人及び同補助参加人の負担とする。

第二被控訴人の請求及び事案の概要

原判決事実及び理由欄の第一請求及び第二事案の概要(原判決三頁六行目(本誌五八九号<以下同じ>35頁下段30行目)から同七八頁三行目(47頁4段31行目)まで)に記載のとおりである。

ただし、原判決四頁九行目の「昭和四三年三月」(36頁1段22行目)を「昭和四二年三月」と改める。

第三証拠関係

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりである(略)。

第四事実関係

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

一  労使関係の経過

1  被控訴人は、昭和三七年ころからトヨタ自工との取引を開始し、昭和四五年一〇月同社の資本参加を受け、昭和四七年五月には、同社が筆頭株主となるとともに、同社で労働組合の委員長を務めたことのある岩満を専務として迎え入れた。

被控訴人は、昭和四八年四月、鶴見が執行委員長を務めていた当時の組合幹部の姿勢を闘争至上主義と批判し、労使一体となった生産性向上への取組強化の必要性などを訴える「全従業員に訴える」と題する文書(<証拠略>)を、同年一二月末には、労働組合も合理化自体を自らの問題として認識し、被控訴人と協力していく態度が必要であるなどと訴える「一九七三年を終えるにあたって――石油危機に対処する心構え――と題する文書(<証拠略>)を、それぞれ従業員に配付した。被控訴人は、その後も、折りをみては、社内報などでストのない労使関係や労使協力の必要性を従業員に訴えた。

昭和四九年一月、岩満が被控訴人の社長に就任し、その後、被控訴人は、同年九月までに、それまで総務部の一部署で取り扱っていた人事関係部門を人事部として独立させ、新たな人事評価制度を作り、係長研修等の教育訓練を実施することにした。そして、同年中には、隔週週休二日制の導入に関して、組合との合意が成立しなかったため、就業規則の変更によって年間総労働時間の短縮に伴う一日の労働時間延長等を実施したほか(その後、組合から就労義務不存在確認を求める訴訟提起等があり、被控訴人は、昭和五〇年七月に右就業規則の変更を撤回し、昭和五一年九月に組合との間で一日の労働時間延長を内容とする労働協約を締結した。)、昭和五〇年には「企業再建計画」による人員整理、昭和五一年には徹底した生産の効率化を志向するいわゆる「カンバン方式」の導入、昭和五二年には得意先に応じた休日編成の実施、夏期一時金及び冬季一時金への成績査定導入の提案、昭和五三年には一時金における欠務評価の導入の提案などを行った。

組合は、右のような一連の合理化策に対して、ワッペン着用、寄せ書き掲示、時間外労働拒否、ストライキ等の反対闘争を行ったほか、変更された就業規則に基づく就労義務が存しないことの確認を求めて裁判所に提訴したり、二回にわたり埼労委に救済命令の申立をしたりした。

鶴見は、昭和四五年以来執行委員長の地位にあり、小川は、昭和四八年に初めて執行委員に選ばれ、昭和五一年から二期連続して書記長を務めていた。当時の組合は、総評全国金属埼玉地方本部の執行委員長に鶴見を就任させるなど総評全国金属埼玉地方本部の拠点としての役割を果たしていた。

2  昭和五三年八月、組合の役員選挙が行われた。この選挙においては、前記の得意先に応じた休日編成の実施や、一時金の成績査定の導入等の被控訴人提案について、組合としてどう対処すべきかが争点となっていた。

選挙に当たり、鶴見や小川ら当時の組合執行部を批判する「正常な労働組合について 我々の基本的な考え方」と題する無記名のタイプ印刷された文書(<証拠略>)が組合員に配付された。プレス職場では、組合員である係長が右文書を配付した。

右選挙の結果、被控訴人の合理化策に反対していた鶴見、小川らの従来の執行部に同調するグループからは執行委員二名が当選したのみで、執行委員長、副執行委員長及び書記長の組合三役に立候補していた鶴見、小川らは落選し、代わって、組合内の労使協調を主張するグループから組合三役と執行委員二名が当選し、ここに新たな執行部が誕生した。

なお、昭和四五年から昭和五三年の役員選挙までの間、組合の三役を経験した者は、鶴見、小川のほかに七名であるが、小川を除く八名は、その後も今日まで引き続き川越工場に勤務している。

昭和五四年、五五年の役員選挙でも、旧執行部派から組合役員に立候補した者は、いずれも落選はしたものの、四〇パーセント前後の得票を獲得し、一名は執行委員に当選している。小川は、昭和五四年に執行委員に当選し、昭和五五年に書記長に立候補し、落選したものの、対立候補と二八票差の八五票(四三パーセント)を得た。旧執行部派から立候補した者の中で最高の得票率であった。

3  焼結品製造のプレス部門では、所属の従業員が常勤、常勤、Ⅰ勤、Ⅱ勤の四編成を順番に勤務する体制がとられており、それぞれの勤務時間は、常勤とⅠ勤がいずれも午前八時三〇分から午後四時五〇分まで(実働七時間二〇分)、Ⅱ勤が午後二時四〇分から午後一〇時一五分まで(実働六時間五〇分)であった。被控訴人は、昭和五四年五月、合理化策の一環として、右のようなプレス部門の交替勤務制について、常勤からⅠ勤までを従前のままとし、Ⅱ勤を午後九時〇〇分から翌日午前五時二〇分まで(実働七時間二〇分)に変更することを提案した。しかし、組合の反対にあい、同年七月、次のような修正提案をした。すなわち、常勤は従前のままとし、Ⅰ勤を午前六時三五分から午後二時四〇分まで(実働七時間二〇分)とし、Ⅱ勤を午後二時四〇分から午後一〇時四五分(実働七時間二〇分)とするというものであり、その眼目は、生産設備の効率化等のためにⅠ勤とⅡ勤とが重なる時間(以下「ラップ時間」という。)を解消することと、Ⅱ勤の労働時間を三〇分延長するという点にあった。

旧執行部派は、右改定の提案に対し、労働者の健康と家庭生活に負担増をもたらすなど労働条件の改悪につながるとして反対を呼び掛けた。小川は、昭和五四年八月の前記組合役員選挙において、執行委員に立候補し、選挙公報(<証拠略>)で反対の意見を表明し、また、被控訴人による労働強化を非難するとともに、組合執行部の弱腰を批判する選挙ビラ(<証拠略>)を配付するなどし、執行委員に当選した。

4  右プレス部門交替勤務の改定案は、昭和五四年八月、春日井支部との間においては、おおむね被控訴人の提案に沿って合意が成立し、ラップ時間の解消も実現した(<証拠略>)。しかし、組合との間においては、同年一一月に成立した合意(<証拠略>)により、Ⅱ勤の労働時間の三〇分延長は実現したものの、ラップ時間の解消に関しては、Ⅰ勤が午前七時〇〇分から午後三時〇五分まで、Ⅱ勤が午後二時四五分から午後一〇時四五分までとなり、なお二〇分のラップ時間が残ることになった。そして、右労働協約の締結に際しては、特別に覚書(<証拠略>)が作成され、三〇分の労働時間の延長に伴う対応措置として組合の要求した年間の休日増加の問題とラップ時間の解消の問題等が継続協議されることになった。

被控訴人は、昭和五五年二月、組合に対し、春日井工場と同様に、ラップ時間を解消しⅡ勤を午後三時〇五分から午後一一時一〇分までとする改定案を提示した。旧執行部派は、右休日増の問題を解決するのが前提であるとして、改定案には反対の立場をとり、同年八月の組合役員選挙で書記長に立候補した小川は、その趣旨を訴えるビラ(<証拠略>)を配付し、また、右選挙で前記のとおり落選した後も、同人が代表を務める編集委員会発行(昭和五五年九月以降鶴見から代表を引き継いだものである。)の職場新聞「こぶし」(<証拠略>)に、ラップ時間解消を求める被控訴人の態度を批判する主張を記載して配付した。

5  昭和五四年一一月に締結されたプレス交替勤務に関する協約が昭和五五年一二月二四日期間満了によって失効し、その後、被控訴人と組合との交渉が行われた結果、同年一二月二六日、同年二月に被控訴人が提案したとおり、ラップ時間を解消し、Ⅱ勤を午後三時〇五分から午後一一時一〇分までとする内容で労働協約が締結された。しかし、労働時間延長に伴う対応措置として組合が要求していた年間休日の増加の問題については、組合が要求を放棄したため実現しなかった。なお、右労働協約の締結に当たり、Ⅱ勤の終業時刻が従前より二〇分遅くなることにより最終電車(東武東上線上りの最終時刻が午後一一時一六分であった。)を利用できなくなる者については、被控訴人がタクシーで従業員の自宅まで送り届けることが約束された。

これに対して、旧執行部派は、労働条件の低下を承認するものであり、年間休日の増加も実現していないとして、組合執行部の対応を批判し、小川も、組合機関紙(<証拠略>)に投稿し、同旨の意見を主張した。

6  ところで、被控訴人は、昭和五五年三月、昭和五五年度会社方針(<証拠略>)を発表し、同年度重点方策として、昭和五八年度までの三か年計画を策定し企業管理体制を充実するなどを掲げていたが、昭和五五年四月ころから計画期間を昭和五九年度までの四年間に延長した長期計画の策定に着手し、右長期計画は、昭和五六年一月一九日の役員会で承認された。長期計画の骨子は、昭和五九年度の目標売上額を一〇〇億円とし、これを達成するために商品開発、生産の効率化等を図るというものであった(<証拠略>)。

被控訴人は、昭和五五年八月ころから、長期計画を実現するために必須の前提条件となるプレス部門の完全二交替制勤務制度の導入を検討し、昭和五六年七月六日、組合及び春日井支部に提案し(<証拠略>)、同月一三日には、「二交替制勤務制度の改定に関する提案について」と題する文書(<証拠略>)を全従業員に配付し、その速やかな実現を訴えた。この完全二交替制勤務制度は、プレス部門の勤務体制をⅠ勤とⅡ勤の繰り返しによる完全二交替制にするというものであり、被控訴人は、同年八月一七日からの実施を提案した。

組合執行部は、同年七月二二日、資料(<証拠略>)を作成配付して、完全二交替制勤務制度の提案についての職場討議を指示し、同月二三日ころから同月二七日ころにかけて第一次の職場討議が行われたが、当該職場であるプレス部門からは、その必要性は理解できるが、現行制度の中でもいろいろ問題点があり、問題点の改善と我々の納得のいく方向での解決を求めるとの意見が出され、他の職場でも、その必要性は認めるが、現状でも問題点はいろいろあるとする意見があった(<証拠略>)。

組合執行部は、この結果を受けて、同年八月一日、春日井支部との合同執行委員会を開催し、協議した結果、執行委員会としては被控訴人提案を受け入れることを確認し、その方向で同月八日から一一日の間に第二次の職場討議を行うことを指示した(<証拠略>)。

7  他方、旧執行部派は、同年七月二七日、被控訴人の右提案について、人員を増やすことなく生産を増やす計画の前提となるものであり、より一層の労働負担の増加となる、家庭生活面でも多くの障害をもたらす、完全二交替制勤務に入れない者の強制配転や実質的な退職強要をもたらしかねないなど問題点が多い旨記載した「こぶし」(<証拠略>)を職場に配付し、右提案に反対であることを訴えた。その翌日、小川に対し、本件配転の内示がなされた。

ところで、旧執行部派は、同月初旬ころ、同年八月下旬の組合役員選挙で小川を書記長候補に擁立することを決定し、組合員の自宅を訪問するなどの活動を行っていたが、本件配転問題が起こったことから、本件配転に応じなければならなくなった場合の組合運営等を考慮して、同月二四日の選挙告示間際に、急遽、小川を書記長候補から副執行委員長候補に変更した。そして、副執行委員長に立候補した小川は、選挙公報(<証拠略>)で、被控訴人提案に反対である旨を訴えるとともに、組合執行部の姿勢を批判し、また、選挙ビラ(<証拠略>)でも、従前から継続協議となっていた年間休日の増加の問題を未解決のままにして完全二交替制勤務の提案をするなどは論外であるなどと主張した。もっとも、小川は、後記のとおり、同月二八日、異議を留めて本件配転に応じたため、選挙期間中に立候補資格を喪失するに至った。

右のとおり、同年八月下旬の組合役員選挙においては、完全二交替制勤務制度についての被控訴人の提案を受け入れることを表明した組合執行部の姿勢が問われることになった。

8  右組合役員選挙の結果、旧執行部派は、従前と同様、執行委員一名の当選を得たのみであった。

完全二交替制勤務の問題については、組合役員選挙で選出された新執行部の下、被控訴人との経営協議会を舞台にした協議が継続される一方、同年九月中に第三次、四次の職場討議(<証拠略>)が行われた結果、同年一〇月二日、被控訴人提案どおりの内容で労働協約(<証拠略>)が締結された。

9  ところで、組合は、昭和五四年一二月に被控訴人から提案のあった完全週休二日制(月曜日から金曜日までの実働時間を延長し、毎週土曜日と日曜日を休日にするというもの)を昭和五七年中に締結すべく、昭和五七年一月、昭和五八年一月の二回にわたり、職場アンケートを実施した。しかし、いずれの結果も、反対の意見が多数を占めた(<証拠略>)。旧執行部派は、「こぶし」(小川が本件配転により浜松出張所に赴任した後は、鶴見が編集責任者に復帰していた。<証拠略>)を配付して、平日の労働時間の延長のみならず、休日出勤も押しつけられるおそれがあるなど労働強化につながるなどとして、反対の意見を表明した。

10  被控訴人は、昭和五七年六月ころから一般従業員を対象とした生産性研修を始めたが、その中で、「研修のまとめ及び具体的行動指針」を示して、職場と組合においてなすべき具体的事項を指示するなどし(<証拠略>)、労使協調による生産性向上を訴えた。

被控訴人は、同年一二月一六日、組合に対し、新製品であるトランスミッションの生産開始に伴い、専用ラインを設けて一貫生産の部門とし、これに交替勤務制を導入することを提案した(<証拠略>)。旧執行部派は、「こぶし」(<証拠略>)紙上で、他部門への交替制の波及や労働強化につながるおそれがあるなどとして、反対の意見を表明したが、組合は、職場討議を経て被控訴人の提案を受け入れ、昭和五八年二月一八日、二交替制勤務の実施についての協定を締結し(<証拠略>)、同年三月から生産が開始された(<証拠略>)。

11  組合は、昭和五八年九月の定期大会に向けて、<1>春闘等の要求、妥結の決定について、従来臨時大会を開催していたものを代議員(組合員七名に一名の割合で選出される)会で決定する、<2>執行委員の任期を一年から二年に延長する旨の組合規約の改正を提案した(<証拠略>)。

これに対して、旧執行部派は、反対運動を行い、同年九月の組合役員選挙の選挙公報(<証拠略>)で、組合を職場や生活と縁遠いものにする旨主張したり、「こぶし」(<証拠略>)を配付して、組合民主主義に反する規約改正であるなどと訴えた。

右規約改正案は、組合役員選挙後の同月二一日に行われた全員投票により、一票差で否決された。

なお、旧執行部派は、昭和五七年、五八年の組合役員選挙においても、執行委員一名の当選を得、その他の役員候補者はいずれも落選したものの、三一ないし四〇パーセントの得票であった。

12  被控訴人は、昭和五八年ころ、組合に対し、労使協調を旨とする新労働協約の締結を提案し、組合は、以後、職場討議を重ねた。旧執行部派は、これに対する反対活動を行ったが、昭和六〇年一二月二日、組合の臨時大会で新労働協約案の賛否を問う投票が行われた結果、賛成多数となり(<証拠略>)、まもなく、被控訴人と組合との間で新労働協約が締結された(<証拠略>)。

13  ところで、岩満は、被控訴人の専務に就任して以後の労使事情について、業界誌「素形材」の昭和五九年一一月二〇日号(<証拠略>)において、「トヨタが重視したのは、東京焼結金属の労使関係であった。絶えず激突している労使関係を正常化しない限り、東京焼結金属の発展はあり得ないと判断したのであった。そこで、昭和二五年のトヨタ大争議の闘争委員長、『全自動車』労組の中央執行委員長等の長い労働運動の私の経験を買っての派遣であった。」「昭和四七年五月の株主総会で取締役就任、専務に就任するやいなや、夏季一時金交渉に責任者として引っ張り出され、労働組合との対決……が始まった。」「私が東京焼結金属へ着任の目的であった階級的労働運動を排除して、健全で、建設的な労使関係を作り上げていくと云うことは、着任以来五年を経て、ほぼ出来上がった。それ以降、労使関係を更に、相互信頼に基づく労使協調の関係に相互が成長すべく努力しているところであり、その成果も上がって来ている。」と述べている。

14  被控訴人においては、昭和四九年ころに人事評価制度の一つとして従業員の資格制度が導入され、小川は、「業務の処理方法については、上長の直接的監督または指導のもとに定められた手続きに従い、限られた範囲の業務に関する一般的基礎知識と判断力を有するもの」と定義付けられている社員一級に格付けされたが、その後現在まで、社員一級のままとされている。小川と同学歴の同期又は一年後入社の者の中には、平成四年四月現在、春日井工場次長、東京営業所長等の職制に就いている者が少なくない。

また、旧執行部派に属し、組合役員選挙に立候補したことのある鶴見らも、職制には就いておらず、昇格もしていない。

被控訴人は、昭和五七年ころから職制のみならず一般従業員も対象とした生産性研修を行い、ほとんどの従業員を参加させてきているが、小川、鶴見ら旧執行部派の組合役員経験者に対する参加の呼掛けは行っていない。

二  本件配転について

1  浜松出張所は、昭和五六年七月当時、小口所長と女子事務員の二名で構成され、浜松地区の得意先に対する焼結品、ヒートパイプ及び焼結ベントの受注・販売・技術サービス等の業務のほか、浜松地区の加工業者に請け負わせている焼結品の品質・納期管理等の外注管理という同出張所特有の業務を行っていたが、売上は焼結品が九割前後を占め、主に春日井工場が生産する焼結品を扱っていた。

浜松出張所の売上実績及び会社売上に占める割合は、昭和五〇年度の一億三〇〇〇万円、四・三パーセントから昭和五五年度の四億三〇〇〇万円、八・二パーセントへと年々増加し、このような取引高の増大に伴い、浜松出張所では、本来の業務に加えて外注管理等の業務に追われるようになり、小口所長と女子事務員は、公休出勤や長時間残業(小口所長の場合、一か月に五〇ないし八〇時間)が常態となっていた。

2  ところで、ヒートパイプは、熱をほぼ等温で輸送すること、見掛け上の熱伝導率が銅の一〇〇倍から一〇〇〇倍と非常に高いこと、軽くていろいろな形状のものが作れること、可動部がないため故障が少ないことを特徴とする熱伝導材である。

被控訴人におけるヒートパイプの研究開発は、川越工場の技術開発部第二技術課が担当して昭和四八年九月から始まり、昭和五二年から産業界との接触も増え、昭和五三年、五四年と応用研究、試作納入が一段と進展し、一部で試験的に採用されたりした後、鈴木自工のバイク「スワニィー」のオートチョーク機構用に正式採用され、昭和五五年一月から鈴木自工向けに本格的な量産納入を開始した。その後、ヒートパイプの生産は、昭和五五年四月二一日をもって、技術部から同じく川越工場の特機部に移管された。

鈴木自工等のヒートパイプの主取引先との営業活動は、浜松出張所の所管であったが、小口所長にはヒートパイプに関する技術的知識がなく、実際には主として名古屋営業所の平林政雄主担当員(後に同営業所長)が行い、必要があるときには、川越工場技術部第二技術課の斉藤係長が応援のために出張していた。昭和五五年七月、平林は川越工場技術部第二技術課長に転勤し、その後は、特機部営業課名古屋駐在員の古川正雄がヒートパイプの営業活動を援助していたが、古川は、ヒートパイプの知識経験はなく、得意先と川越工場技術部との間の取次ぎ程度の役割しか果していなかった。

ヒートパイプの拡販のためには、採用される製品の設計、試作の段階から、得意先の技術担当者と密接に接触する必要があり、バイク「スワニィー」のオートチョーク機構用にヒートパイプが採用された鈴木自工についても、二輪業界では一つのモデルの寿命が二年程しかないことから、ヒートパイプの量産納入を継続するためには、「スワニィー」の後続モデルでも採用されるよう、技術担当者と密接に接触する必要があった。

3  昭和五五年一二月一九日、被控訴人は、営業部監査を行った。同監査には、社長、専務らの被控訴人の首脳陣や営業部の管理職が出席し、営業部門の計画達成状況等についての検討を行ったが、この場で、名古屋営業部の責任者である矢頭名古屋営業部長代理は、浜松出張所と大阪営業所につきそれぞれ一名の増員を要請した。

昭和五六年一月中旬ころ、矢頭部長代理は、本社に浜松出張所の増員を求める稟議書を提出することを考え、小口所長に対し、その下書を起案するように指示した。小口所長は、同月下旬ころ、「増員の件」と題する稟議書の下書(<証拠略>)を起案して、矢頭部長代理に提出した。右下書の「起案要旨」欄には、浜松出張所の現状やできるだけ早く一名の増員を願う旨が、「意見」欄には、工業高校(機械又は電機)卒業程度以上の人を望む、浜松出張所は春日井工場の製品が多いのでできれば春日井工場の現役が最適と考える旨が、それぞれ記載されていたが、ヒートパイプの拡販については記載されていなかった。矢頭部長代理は、同年二月初めころ、小口所長の作成した右下書を参考にして、「営業部員(浜松出張所)一名増員の件」と題する稟議書を起案したうえ、小口所長にその写し(<証拠略>)を手渡した。右稟議書起案には、一名の増員が必要である旨が記載されていたが、矢頭部長代理の判断により、右下書の「意見」欄に記載されていた春日井工場の現役が最適と考える旨の意見は削除され、人選に関する記載やヒートパイプの拡販についての記載もなかった。小口所長は、その際、矢頭部長代理から増員補充の方法について心当たりがあるなら考えておくようにいわれ、後日、右稟議書写しに「具体的な人選(人名を出す)マル秘 二月一四日までに」「新聞の広告については見積をとる 毎日、朝日、読売、静岡」との記入をした

被控訴人においては、同年一月末ころ、岩満社長、小野常務らが協議して、前記営業部監査の際に要請のあった浜松出張所及び大阪営業所の各一名の増員と、営業部監査の後に要請のあった本社特機部営業課への一名増員を正式に決定し、同年二月五日ころ、亀田人事部長が矢頭部長代理にその旨連絡した(矢頭部長代理は、この連絡を受けたので、本社に対し、右稟議書を提出しなかった。)。これら三名の増員は、社内配転により実施することとされ、実施時期は定時株主総会終了後の七月が予定された。

なお、被控訴人における人事異動は、毎年六月末に開催される定時株主総会終了後に実施される慣行となっており、昭和四七年は八月に、昭和四九年、五〇年は九月に、昭和五一年は一二月に、昭和五二年と五三年は八月と九月の二回に分けて、昭和五四年、五五年は七月に、それぞれ実施された。

4  ところで、被控訴人の昭和五五年度会社方針(<証拠略>)によると、同年度の売上目標額は五一億三八〇〇万円、そのうちヒートパイプは五〇〇〇万円とされた。そして、昭和五六年一月一九日に役員会で承認された前記長期計画によると、ヒートパイプの売上額及び全売上額に占める割合の目標は、昭和五六年度が八〇〇〇万円、一・二パーセント、昭和五七年度が一億五〇〇〇万円、一・九パーセント、昭和五八年度が二億円、二・三パーセント、昭和五九年度が二億五〇〇〇万円、二・五パーセントとされた(<証拠略>)。

長期計画に先立って、昭和五五年一二月に策定された浜松出張所の昭和五九年度までの売上計画によると、総売上額の目標は、昭和五六年度が五億七六〇〇万円(そのうちヒートパイプが六五〇〇万円。以下、かっこ内はヒートパイプの目標額)、昭和五七年度が七億七三〇〇万円(一億二三〇〇万円、なお、後記のとおり被控訴人が従業員に配付した「小川邦夫君に対する転勤命令の件」と題する書面では、昭和五七年度にヒートパイプの月商を六〇〇万円つまり年商を七二〇〇万円に拡大する計画である旨記載されている。)、昭和五八年度が九億二〇〇〇万円(一億五〇〇〇万円)、昭和五九年度が一〇億六〇〇〇万円(二億円)とされていた(<証拠略>)。つまり、ヒートパイプの昭和五九年度の売上目標をみると、被控訴人全体の八割に当たる二億円を浜松出張所で売り上げるとされていたのであり、長期計画におけるヒートパイプの売上目標を達成するためには、浜松出張所におけるヒートパイプの拡販が重要な意味を持っていた。

しかしながら、浜松出張所におけるヒートパイプの売上実績は、昭和五六年度が五八〇〇万円(<証拠略>)、昭和五七年度が一一〇〇万円であり、特に昭和五七年度において目標額を大幅に下回ったが、昭和五六年度の減少は、主要取引先である鈴木自工の「スワニィー」の減産によるものであり、昭和五七年度の減少は、「スワニィー」の次のモデルの「ジェンマ」では、エンジンとキャブレターが近接している構造のためにオートチョーク用にヒートパイプが採用されなかったためであり、右売上減少後も、浜松出張所では、拡販努力を放棄したわけではなく、業績を回復するための営業活動を行い、「ジェンマ」の次のモデルの「ランディ」ではヒートパイプの採用に成功し、川越工場技術部でも、継続してヒートパイプの研究・開発を行っていた。

5  ところで、被控訴人の就業規則(昭和五二年三月一〇日施行。<証拠略>)五六条によると、業務上の都合により転勤を命ずることがあると定められ、同五七条によると、業務上の都合により職種変更又は配置転換を行うことがあると定められていた。

昭和五六年三月下旬、本社特機部営業課の増員について、特機部と東京営業部との間で検討が行われ、同年四月一日付けで東京営業部所属の従業員を配転することによって実現した。

同年五月下旬ころ、被控訴人においては、小野常務、亀田人事部長、兵頭人事課長らが中心となり、昭和五六年度の全社的な人事異動を七月中に実施すべく具体的な検討に着手した。

同年六月上旬ころ、本社において、浜松出張所の増員について矢頭部長代理と人事部との協議が行われた。人事部は、右協議結果に基づき、同月下旬ころ、技術部門担当である伊藤常務に対し、<1>ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験のある者、<2>焼結品に関して小口所長を補佐して活動ができる程度の知識を有する者という基準で人選するように依頼し、これを受けた伊藤常務は、田端技術部長に具体的な人選を指示した。

田端技術部長は、原田特機部長及び平林技術部第二技術課長と相談のうえ、人事異動に関する社内通達、従業員の社内経歴を記録したカード、身上調書等を参照して人選を行い、川越工場の従業員の中から、技術部第二技術課所属の小川と岩崎稔、特機部技術課所属の池川正之と井上亘、生産技術部技術課所属の青山恭樹を候補者に挙げた。

小川は、昭和二三年四月七日生れで、工業高校を卒業して昭和四二年三月に被控訴人に入社した者であり、公立保育園で保母をしている妻と四歳の子がいた。池川は、昭和三一年五月一三日生れで、工業高専を卒業して昭和五二年三月に被控訴人に入社した独身者であり、昭和五四年一〇月に春日井工場から川越工場へ配転された。岩崎は、昭和三〇年一一月一一日生れで、大学(機械工学科)を卒業して昭和五四年三月に被控訴人に入社した独身者であった。井上は、昭和二七年九月二七日生れで、工業高校を卒業して昭和四六年三月に入社した者であり、専業主婦の妻と子二人がいた。青山は、昭和二八年一月一日生れで、工業高専を卒業して昭和四八年三月に被控訴人に入社した独身者であった。

右五名の当時までのヒートパイプと焼結品に関する経験は、次のとおりである。

(氏名) (焼結品に関する経験) (ヒートパイプに関する経験)

小川 昭和四二年四月から昭和五一年六月までの約九年二か月間 昭和五一年六月から昭和五六年六月までの約五年間

池川 昭和五二年五月から昭和五四年一〇月までの約二年五か月間 昭和五四年一〇月から昭和五六年六月までの約一年八か月間

岩崎 昭和五四年五月から同年一〇月までの約五か月間(入社時の実習経験) 昭和五四年一〇月から昭和五六年六月までの約一年八か月間

井上 焼結品に直接関与した経験はない。 昭和五五年四月から昭和五六年六月までの約一年二か月間

青山 昭和四八年六月から昭和四九年九月まで及び昭和五〇年九月から昭和五六年六月までの約七年一か月 昭和四九年九月から昭和五〇年九月までの約一一か月

田端技術部長は、右のとおり、小川以外の四名がいずれもヒートパイプに関する経験が二年未満であるのに対し、小川は、約五年間の経験があるうえ、その業務内容もヒートパイプの試作や性能測定、測定装置の設計や製作等に幅広く携わっていて、ヒートパイプに関する知識・取扱経験ともに対象者中最も豊富であり、また、焼結品についても、金型製造ではあるが九年余りの経験があって、小口所長を補佐して営業活動ができる程度の相応の知識を有しているとして、小川を対象者に人選した。

ところで、被控訴人においては、以前から技術的な知識・経験を有する者を営業部門に配置して営業活動に従事させており、工場の技術職から営業所の営業職又は事務職への配転が行われていたが、この異職種間配転は、主として役付きから又は役付きとしての配転あるいは通勤可能地間の配転が多い。昭和四六年から昭和五六年までの一〇年間に所属組合の変更を伴う配転(主として川越工場と春日井工場との間)が行われた事例は一九件である。また、妻帯者が転勤した例も、人選を担当した田端技術部長が調査した範囲内で三、四件存在した。組合役員経験者に対し組合の所属変更を伴う配転がなされたことも八例程度あったが、いずれも組合役員を終えて二年以上経過しての配転であった。

人選手続を終了した田端技術部長は、その旨を伊藤常務に報告して承認を得た後、同常務の指示で、昭和五六年七月一〇日に人事部に小川を人選したことを通知したが、その際、人選手続についての説明は行わなかった。なお、人事部は、同月中旬ころ、矢頭部長代理に対し、小川が人選された旨連絡した。

同月二七日、被控訴人の常務会が開かれ、小川を含めた昭和五六年度の人事異動について決定し、岩満社長の決裁を得た。

6  昭和五六年七月二八日、被控訴人は、田端技術部長及び平林第二技術課長を通じて、小川に対し、同年八月一日付けで浜松出張所に配転する旨内示するとともに、配転の理由について、同出張所の主要な取引先である鈴木自工を中心としたヒートパイプ及び焼結品の拡販のためには、現状の人員体制では不十分であること、焼結品について相応の知識を持ち、ヒートパイプに関しても得意先の要請に対処できる知識・経験を持った人物を配置することとして人選手続を進めた結果、小川を適任と判断したものであることを説明した。

これに対して、小川は、被控訴人の右説明のような事情は理解できるが、同人の配偶者が公立保育園の保母(川越市職員)として勤務しており、共働きが崩れると生活が成り立たないし、単身赴任も無理である、不適当な配転であって他に理由があっての配転だと思う旨述べて、配転には応じられないことを表明した。

なお、この日、被控訴人は、小川以外の異動対象者に対しても内示を行った。

7  昭和五六年七月二九日、田端技術部長と平林第二技術課長は、小川と面談し、再度、本件配転の業務上の必要性と小川を適任と判断した理由を述べて説得したが、小川は、再び、本件配転には応じられない旨表明した。

同月三〇日、田端技術部長と平林第二技術課長は、小川と面談し、被控訴人が八月一日付けで予定していた人事異動の対象から同人を除外し、同人に対する発令を延期したことを告げ、共働きだから転勤できないということでは企業の活力は生れない、就業規則あるいは一般の雇用慣行に照らしても転勤は当然のことである、単身赴任も含めて考えてもらいたい旨主張したが、小川は、妻の仕事の性質上再就職が難しいこと、妻が現在の仕事に強い愛着と誇りを抱いており、他の職場には移れない旨主張して配転を拒否する姿勢を改めて示した。

更に、同年八月四日、六日、八日と、田端技術部長、亀田人事部長らが、小川の説得に当たり、その際、<1>単身赴任となった場合、別居手当月額二万円及び月二回の帰省旅費を支給する、<2>浜松出張所における勤務期間を二年間に限定する、<3>配偶者の帰宅が遅くなる場合の二重保育の費用についても全額かそれに近い金額を被控訴人が負担する、などの条件を提示したが、小川は、考えは変わらないとして、やはり配転には応じなかった。

右別居手当の支給の制度は、昭和五五年七月の定期異動時に新設されたものであり、当初は支給期間が一年間に限定されていたが、今回の定期異動時より支給期間の限定がなくなったものであり、また、帰省手当制度は、今回の定期異動時に新設されたものであり、小川に対し提示された勤務期間二年の限定や二重保育費用の補助の条件も異例に属するものであった。しかしながら、小川にとって、単身赴任自体、精神的負担の伴うものであるうえ、右別居手当が支給される代わりに住宅手当の支給がなくなり、浜松での住居費のうち月額七五〇〇円は自己負担であり、二所帯生活による生活費の支出増も見込まれるため、昭和五〇年に購入したマイホームのローンの返済中であることなどから、配転による経済的負担も少なくないと予想された。

小川は、同月四日、被控訴人に対し、妻と共働きであることや子供の保育問題を理由に浜松出張所への配転には応じられない旨の「浜松出張所勤務に関する件」と題する文書(<証拠略>)を提出したほか、同月六日、組合に対し、小川への説得を中止するよう被控訴人に申し入れて欲しい旨文書(<証拠略>)をもって要請した。

同月一〇日、技術部門担当の伊藤常務と亀田人事部長が小川と面談したが、その際、小川は、自分が断り続けているにもかかわらず被控訴人が浜松出張所への配転を撤回しないのは、自分の組合役員歴や組合役員選挙の度ごとに立候補していることが理由だと思う、自分は今回の組合選挙に多くの推薦を受け立候補するつもりでいるので、浜松出張所への配転には応じられない旨の「浜松出張所勤務に関する件」と題する文書(<証拠略>)を提出し、やはり転勤を拒否する態度を示した。

同月一七日、伊藤常務と田端技術部長が小川と面談したが、その際、小川は、基本的には考えが変わっていない旨述べたうえ、被控訴人がこれまでに提示した条件を文書化するよう要求したのに対し、伊藤らは、できる限りの条件を提示して配転に応じてもらうよう話合いを行い、円満に発令したいと考えてきたが、これ以上話し合う余地がないのなら、被控訴人としても考えなければならない旨答えた。

なお、同日、組合執行部は、小川から事情を聴取した。

8  同月一八日、人事担当の小野常務、田端技術部長、水嶋川越工場管理部長、兵頭人事課長は、小川と面談し、被控訴人が既に提示した配転の条件を文書化した同日付けの人事部長名のメモ(<証拠略>)を手渡すとともに、同月二〇日から浜松出張所勤務を命じる旨の同月一八日付け辞令(<証拠略>)を交付し、同月二六日までに浜松出張所に赴任するように命じた。

同月一九日、伊藤常務、田端技術部長、水嶋管理部長が小川と面談したが、小川は、現在組合と相談しており、明日態度を表明するとしたうえ、浜松出張所での二年間の勤務終了後の勤務地を明らかにして欲しい旨申し入れたのに対して、伊藤らは、埼玉県狭山市所在の自宅から通勤できる事業所に配属する旨の同日付けの人事部長名のメモ(<証拠略>)を手渡した。

同月二〇日、田端技術部長、水嶋管理部長、平林第二技術課長が小川と面談したが、その際、小川は、<1>提示された条件を含めて考えても、家庭に混乱をもたらす、<2>予想していなかった異職種への配転であり、業務遂行が困難である、<3>自分はこれまで組合活動を行ってきており、また、今回の役員選挙に立候補する予定であることを既に被控訴人に表明しているが、本件配転は、組合活動に対する意図的な妨害行為であって許し難く、速やかな撤回を求める旨の「浜松出張所配転の件」と題する文書(<証拠略>)を提出し、重ねて浜松出張所への配転を拒否することを表明した。

同月二一日、田端技術部長、水嶋管理部長らは、小川と面談し重ねて説得を行ったが、やはり小川は態度を変えなかった。また、同日、小川は、被控訴人による説得の経過やそこで提示された条件のほか、右「浜松出張所配転の件」と題する文書と同旨の配転拒否理由を記載した「配転辞令の撤回を求めています」と題する自己名義のビラ(<証拠略>)を作成して職場に配付した。

同月二四日、水嶋管理部長らは、小川と面談し重ねて説得を行ったが、やはり小川は態度を変えようとしなかった。また、同日、小川は、被控訴人に対し、同日付け文書(<証拠略>)をもって、組合役員選挙で副委員長候補に立候補したことを通知するとともに、組合員としての権利行使を一切妨げないことを強く要求し、組合の執行部及び選挙管理委員会に対しても、同日付け文書(<証拠略>)をもって、被控訴人に小川の組合員としての権利行使を妨害させないよう申し入れた。他方、被控訴人は、同日、川越工場の従業員に対し、小川に対する説得の経緯を述べたうえ、浜松出張所では、焼結品について現状の人員での対応は不可能であり、また、ヒートパイプ拡販のための機能強化が必要であることから、ヒートパイプの知識を有し、焼結品についても相応の知識を持った小川を選任した旨の「小川邦夫君に対する転勤命令の件」と題する文書(<証拠略>)を配付した。

同月二六日、小野常務、田端技術部長、水嶋管理部長、平林第二技術課長らは、小川と面談し、配転を拒否することは就業規則の懲戒事由に該当する、懲戒解雇も含めて考えざるを得ない旨警告して、翻意を促したが、小川は、なおも本件配転の撤回を要求した。

ところで、被控訴人は、同日開催された経営協議会において、組合が本件配転に応じないことによる懲戒解雇の発令を延期するよう要請したのを受け、直ちに懲戒解雇を発令することは控える旨約束した。なお、従前から、被控訴人には、労使間の話合いの場として経営協議会という制度があり、本件配転問題についても、同年七月三〇日から同年八月二六日までの間に四回にわたって経営協議会の場で取り上げられ、その際、被控訴人が組合に対し、本件配転の必要性、小川に対する発令延期と説得の状況、同月一八日付け辞令の交付の経緯などを説明した。

同月二七日、被控訴人と組合との事務折衝が行われ、その際、組合は、浜松出張所に人員強化の必要があることは理解できるし、小川が選ばれた理由についても合理性が認められ、二年間の期限を付したことは小川にとって好ましい条件であると考える旨本件配転についての見解を表明するとともに、翌二八日に、組合三役立会いの下で小川との面談の場を持ってもらいたい旨申し入れ、被控訴人はこれを了承した。

同月二八日、組合三役立会いの下で、小野常務、田端技術部長、水嶋管理部長、平林第二技術課長らと小川との面談が行われ、席上、小川は、本件配転は不法・不当と思うが、懲戒解雇を避けるため、やむを得ず浜松出張所に赴任する、しかし、これは本件配転を承諾するものではなく、第三者機関に判断を委ねるつもりである旨述べ、異議を留めて本件配転に応じることを表明した。

9  同年九月七日、小川は、浜松出張所に着任したが、その三日後の同月一〇日付けで、埼労委に対し、本件配転命令を撤回して原職に復帰させることを求める不当労働行為の救済申立をした。

10  小川は、浜松出張所に単身赴任し、同出張所お(ママ)いて、焼結品、ヒートパイプ等についての営業活動を行い、ヒートパイプについては、得意先の担当技術者と直接接触し、そこで得た情報を川越工場の技術部に伝達するなどの仕事をした。川越工場技術部第二技術課におけるヒートパイプについての経験等が役立ったことは、小川自身認めるところであり、本件配転後、小川の活動により前記斉藤係長の浜松への出張が減少した。

小川は、本件配転に伴い、春日井支部に所属することとなったが、浜松出張所が春日井支部の中心である春日井工場と距離的に遠いこともあって、春日井支部から送付される資料を読んだり、定期大会に参加する程度の組合活動を行ったのみで、川越工場在勤中のような活発な組合活動は行わなかった。また、右のような地理的関係から、浜松出張所の従業員が春日井支部の役員を務めることは事実上不可能であった。

三  本件再配転について

1  東京営業所は、本社の東京営業部に所属し、昭和五六年七月当時、北関東出張所の一名を含む七名(東京営業所常駐の営業所担当員は四名)で構成され、焼結品、焼結ベントの販売業務を行っていた。

なお、東京営業所の北関東出張所を除く営業担当者は、本件再配転により五名となったが、その後、昭和五九年八月には二名減の三名、昭和六〇年五月には新規採用一名を含む四名となっている。

2  昭和五七年三月、被控訴人は、昭和五七年度会社方針(<証拠略>)を発表し、その中で、昭和五六年度売上額が目標を下回ったため、前記長期計画の見直しを行い、昭和五七年度の売上目標額を約六九億円に減額修正し、売上目標額一〇〇億円の達成年度を当初の計画より一年遅らせ昭和六〇年度としたことを明らかにした。

昭和五八年三月、被控訴人は、昭和五八年度会社方針(<証拠略>)を発表し、その中で、昭和五七年度の売上実績額が前年度にも及ばず、長期計画の売上目標額を大きく下回ったため、再び長期計画の見直しを行い、売上目標額一〇〇億円の達成年度を更に一年遅らせて昭和六一年度以降としたうえ、昭和五六年度の売上目標額を一〇〇億円を割る九七億五〇〇〇万円とし、特機部門の拡大に重点を置くことを明らかにした。

昭和五七年度及び昭和五八年度の右会社方針には、昭和五六年度会社方針には示されていたヒートパイプの売上目標額の記載がなく、ヒートパイプの売上が減少していることについての分析等の記載もなかった。なお、前記のとおり鈴木自工の「ランディ」ではヒートパイプが採用されたが、その後のモデルでは採用されず、これを契機に昭和五九年ころには、被控訴人においてはヒートパイプの生産ラインを休止し、外注により調達するようになった。

3  ところで、被控訴人は、販売体制の強化策として、各営業部門の取扱品目の見直しを行い、本社特機部営業課がモーターポンプの販売に専念するため、従来、同課で扱っていたヒートパイプを、昭和五八年四月から新たに東京営業所で扱うこととし、従来の特機品扱いから焼結ベントと併せて特品扱いとした。

東京営業所における昭和五三年度から昭和五七年度までの売上実績は、昭和五三年度が焼結品一四億〇五〇〇万円、焼結ベント八〇〇万円、合計一四億一三〇〇万円、昭和五四年度が焼結品一五億五八〇〇万円、焼結ベント一二〇〇万円、合計一五億七〇〇〇万円、昭和五五年度が焼結品一八億〇八〇〇万円、焼結ベント一四〇〇万円、合計一八億二二〇〇万円、昭和五六年度が焼結品一八億三一〇〇万円、焼結ベント一三〇〇万円、合計一八億四四〇〇万円、昭和五七年度が焼結品一六億一六〇〇万円、焼結ベント二〇〇〇万円、合計一六億三六〇〇万円であり、昭和五三年度以降順調に伸びてきた焼結品の売上が一転して前年度を二億円強も下回った(<証拠略>)。このような売上実績を踏まえて策定された東京営業所の昭和五八年度販売計画では、売上目標が焼結品一七億〇八〇〇万円、焼結ベント二五〇〇万円とされたが、ヒートパイプについては具体的な目標額は計上されなかった(<証拠略>)。東京営業所におけるヒートパイプの販売実績は、昭和五五年度、五六年度が二〇万円、昭和五七年度が一〇〇万円、昭和五八年度が一〇万円、昭和五九年度、六〇年度がいずれも零であった(<証拠略>)。

4  東京営業所において、昭和五八年度販売計画の売上目標額を達成するためには、拡販運動を積極的に進め、新規受注を拡大していく必要があったが、焼結品の主要取引先では、合理化策として組み付け部品の在庫を極端に切り詰めているため、使用前一日ないし一日半分の在庫の余裕しかなく、毎日の指示どおりに納入できないと、すぐ欠品が生じ、ラインストップが発生するという状況であるため、営業担当者は、納期管理を徹底するため、川越工場に赴いて納期管理業務に従事することが必然的に多くなり、本来の営業活動に十分な力を注ぐことができない実情にあった。また、焼結ベントについても、商品の性質上、継続して大量の受注が望めないことから、昭和五八年度販売計画の売上目標額を達成するためには、これまで以上に、新規開拓のための拡販活動を積極的に進め、得意先を増やす必要があり、殊に、焼結ベントのうち、被控訴人が新たに開発した細孔ベントは今後大いに期待できる商品で、営業体制を強化して拡販活動により一層の力を入れる必要があった。そして、特機部営業課から引き継いだヒートパイプについても、昭和五八年度販売計画に具体的な売上目標額は定められていないものの、それまで特機部営業課が数社に試作品を納入するなどの営業活動を行ってきたことから、右数社の洗い直しのほか、新規市場の開拓など拡販の基礎固めを行う必要があった。

東京営業所においては、昭和五八年度販売計画の売上目標を達成するために、右のような積極的な営業活動を行わなければならず、少なくとも営業担当者一名の増員の必要性があった。

5  昭和五八年四月、営業部監査が行われ、森田東京営業部長が東京営業所の増員を要請し、一名の増員が承認された。その際、森田東京営業部長は、人選に当たっての条件については特に上申しなかった。

同年五月中旬ころ、被控訴人は、同年度の定期人事異動の準備を開始し、同年七月ころから具体的な検討に入ったが、これに併せて、本件配転時に小川に約束していた前記の条件すなわち浜松出張所での二年間の勤務期間経過後は狭山市所在の自宅から通勤できる事業所に配属する条件の履行の検討も行った。

右人事異動に際して、川越工場からは、特機部係長職一名の増員要請が出されたのみであった。なお、川越工場では、昭和五七年度七月、同年三月に大学の動力機械工学科を卒業し新採用された森谷徹が、また、昭和五八年五月、同年三月に大学の機械工学科を卒業し新採用された荒井正美が、いずれも技術部第二技術課に配属され、複合材の材料開発やその製品に関する研究開発の業務に携わっていた。

昭和五八年七月二〇日、亀田人事部長と森田東京営業部長が小川の配属先について協議し、自宅から通勤できる事業所に配属する旨の小川との約束を履行するためには、川越工場か、自宅から片道約一時間余で通勤できる距離にある本社又は東京営業所に配属する以外にないところ、川越工場からは係長職一名の増員要請が出されているだけなのに対して、東京営業所では営業担当者一名の増員が要請されているとして、小川を東京営業所に配属することを決定した。

6  同年八月一七日、被控訴人は、常勤役員会で、昭和五八年度の人事異動を決定し、翌一八日、異動予定者に対して一斉に内示した。

被控訴人は、この人事異動で、本件配転時の人選に際して候補者の一人に挙がっていた青山恭樹(その後、「大河原」と改姓していた。)を、浜松出張所の小川の後任に充てた。青山は、昭和五七年四月以降、川越工場の焼結製造部製造課製造一係に所属していたものであり、同人の後任は補充されなかった。

昭和五八年八月二四日、被控訴人は、人事異動の実施に先立ち、組合及び春日井支部と、それぞれ個別に経営協議会を開催し、本件再配転を含む昭和五八年度定期人事異動について協議したが、右両組合から特段の異議は出なかった。そして、同日、同月二五日付けの異動辞令が異動対象者に対して一斉に交付された。

7  同月三〇日、小川は、本件再配転は不当な本件配転を合理化し、加えて、自己の組合活動を制限しようとする意図の下になされたもので、今までどおり本件配転の不当性について争い続けざるを得ない旨の同月二八日付け文書(<証拠略>)を被控訴人に提出し、異議を留めて本件再配転に応じることを明らかにした。そして、小川は、同年九月五日、東京営業所に着任したが、翌六日には、埼労委に対し、本件再配転について、本件配転についての不当労働行為の救済申立に追加して救済を求める旨の変更申立をした。

小川は、東京営業所において、焼結ベントとヒートパイプの販売を担当し、焼結ベントやヒートパイプについて、従来の得意先への訪問、カタログの発送、新規開拓のための訪問、以前に試作品を納入したことのある取引先のフォローなどの営業活動を行っている。

8  小川は、本件再配転に伴い、組合の組合員に復帰した。

本件再配転時の組合の組合員数は二〇〇名強であり、そのうち、本社及び東京営業所に所属する組合員は一六名で、組合員の約九〇パーセントは川越工場に所属していた。また、労使間で問題となる事項のほとんどが川越工場の問題であり、組合書記局も川越工場に置かれ、執行委員会等は川越工場で開催されていた。そして、組合の執行委員や闘争委員は、川越工場の組合員から選出され、本社及び東京営業所に所属する組合員が立候補・選出されたことはない。

組合の執行委員会等は原則として時間外に行われているが、執行委員会等に参加するため東京営業所から川越工場に赴くためには、鉄道で約一時間半を要することから勤務時間内に出発しなければならないこととなり、この場合、時間内組合活動届を会社に提出して承認を得ることとなっている。この時間は、賃金カットの対象となるのみならず(もっとも、カット分は組合から補償される。)、欠務として取り扱われ、一定の条件(六か月間で労働時間の一五パーセント以上欠務)で一時金の査定に影響するものとされている。

以上のとおり、小川は、組合員に復帰したものの、本件配転前のような活発な組合活動は行えなかった。

第五本件配転と不当労働行為

以上の認定事実に基づいて、まず本件配転の不当労働行為性の有無について判断する。

一  本件配転の当時、浜松出張所においては、焼結品、ヒートパイプ等の取引高の増加に伴い、小口所長と女子従業員一名が公休出勤や長時間残業をするのが常態となっており、ヒートパイプの営業についても、名古屋駐在員の援助を受けており、昭和五五年一二月には矢頭名古屋営業部長代理から営業担当者一名の増員要請がなされ、これが認められたものであって、浜松出張所において営業担当者一名を増員する業務上の必要性があったことは明らかである。

そして、女子従業員のほかには、ヒートパイプに関する知識・経験を欠く小口所長しかいない浜松出張所の人員構成、ヒートパイプについて被控訴人の売上高の八割を浜松出張所が占め、今後も拡販が期待できるなどの状況にあった浜松出張所の業務内容に照らすと、浜松出張所の増員に当てる営業担当者について、被控訴人が、<1>ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験のある者、<2>焼結品に関して小口所長を補佐して活動できる程度の知識を有する者という基準で人選することとしたのは合理的である。

また、右基準に該当する者として挙げられた五名の候補者のうちでは、小川が、ヒートパイプに関する経験が五年で最も長く、ヒートパイプの試作や性能測定等に幅広く携わっており、焼結品についても、金型製造ではあるが九年余りの経験があったのであるから、小川を最適任者として選抜したことも合理的であったと認めることができる。小川について余人をもっては代え難いというほどの非代替性がなければ人選の合理性が左右されるというものではない。

控訴人及び参加人は、右人選の合理性について種々の疑問を呈しているが、いずれも十分な根拠があるものとは認め難い。その詳細は、原判決一三八頁六行目(57頁2段26行目)から一五七頁二行目(60頁2段30行目)まで及び一九五頁一行目(66頁3段28行目)から一九六頁一行目(66頁4段18行目)までの説示のとおりである。

二  他方、被控訴人における労使関係についてみると、昭和四七年にトヨタ自工から岩満が専務として迎えられて以来、鶴見及び小川らによる当時の旧執行部組合を階級的、闘争的組合と批判する被控訴人と組合との対立が激化していたところ、昭和五三年八月の組合役員選挙を機に、組合内の労使協調派が執行部を占めて主導権を掌握するに至り、旧執行部派は少数派に転じた。被控訴人は、これによって健全で建設的な労使関係が作り上げられたと評価した。

しかし、旧執行部派は、その後も毎回の組合役員選挙で四〇パーセント前後の得票を集め、執行委員一名を必ず当選させるなど組合員から少なくない支持を得ていたものであり、被控訴人の進める合理化方策とこれを受け入れる姿勢の組合執行部を批判し続けていた。そして、昭和五四年に被控訴人が提案したⅡ勤の労働時間の三〇分延長及びラップ時間解消のための交替制勤務に対しても、最後まで強く反対した。この間、小川は、毎年行われる組合役員選挙に旧執行部派から立候補し、労使協調路線をとる組合執行部を批判するとともに、被控訴人の提案に反対する活動を行った。本件配転問題が起こる直前の昭和五六年七月、被控訴人が長期計画実現の前提となるプレス部門の完全二交替制の導入を提案したのに対し、組合執行部はこれを受け入れることを確認し、その方向で職場討議を行うこととしたものの、旧執行部派は反対して、同年八月末の組合役員選挙に小川が書記長に立候補することになり、右選挙では完全二交替制を受け入れることの是非が焦点の一つとなっていた。本件配転により小川が組合から転出することになれば、旧執行部派の勢力は多かれ少なかれ弱くなることは避けられないところであったと認められる。

このような労使関係の推移からすれば、労使協調を望む被控訴人が、少数派ながら一定の勢力を保って活発な反対活動を展開する旧執行部派及びその中の活動家である小川を快く思っていなかったであろうことは自然であるし、特にプレス部門の完全二交替制の導入を進めているさなかに、これに対する反対を掲げて組合役員選挙に臨もうとしていた小川らの活動を嫌っていたことは容易に推認できるところである。小川が昭和四九年に資格制度が実施されて以来昇格しておらず、また、旧執行部派の組合役員経験者に対しては、一般従業員をも対象として実施されている生産性研修への参加の呼掛けが行われていないことなども、これを裏付ける事情といえる。

そして、小川は、共稼ぎの妻と四歳の子供がいたために、浜松出張所へは単身赴任せざるを得ない事情にあり、本件配転によって私生活でもかなりの不利益を受けることは明らかであった。

三  右一及び二によれば、本件配転については、これを実施する被控訴人の業務上の必要性と、完全二交替制の導入を前にして小川ら旧執行部派の反対活動を嫌う被控訴人の意思とが競合的に存在したものと認めるのが相当である。この場合において、本件配転を小川の組合活動の故をもってなされた不利益取扱いの不当労働行為であるとするためには、右後者の反組合活動の意思が、前者の業務上の必要性よりも優越し、本件配転の決定的な動機であったことを必要とすると解される。

四  そこで進んで、右に認定した本件配転の経緯、その業務上の必要性、被控訴人と旧執行部派との対立状況、本件配転が旧執行部派の活動に及ぼす影響等のほかに、本件配転が被控訴人の業務運営の中で異例と目すべきものであったかどうかを検討する。

1  被控訴人における過去の配転事例をみると、工業高校を卒業し製造部門の非役付きの技術者として勤務してきた妻帯者が、遠隔地の営業所に非役付きの営業担当者として配転になり単身赴任をしたという、本件配転と全く同一タイプの先例があったことは、被控訴人の立証によっても認められない。しかし、技術職を営業部門に配置して営業活動を行わせる異職種間配転は被控訴人の従前からの方針であり、また、組合の所属変更を伴う遠隔地への配転例も相当数みられるところである。本件配転前の異職種間配転の多くが役付きとしての配転あるいは通勤可能地間の配転であったとしても、非役付者の遠隔地への配転は行わないことが人事上の方針ないし慣行になっていたとは認められない。妻帯者の配転例もあり、単身赴任せざるを得ないような配転は控えるとの運用がなされてきたと認めるべき証拠はない。

参加人は、本件配転と過去の配転事例とを比較し、その個別の相違点を指摘して、本件配転の特異性を主張するが、企業における人事権の行使は、個々の場合の業務上の必要性の度合い等をも考慮して決められることであり、前記一で認定した本件の業務上の必要性及び人選事情を勘案すれば、本件配転を行うことが従来の人事方針からは考えられない特異のものであったとまでは認めるに足りない。

2  小川は、昭和四八年から昭和五二年まで及び昭和五四年に組合の執行委員や書記長を歴任し、昭和五三年及び昭和五五年には書記長等に立候補して落選し、昭和五六年八月の組合役員選挙では書記長に立候補を予定していたものである。しかし、組合役員経験者に対して組合の所属変更を伴う配転が行われた先例は希有ではない。旧執行部派の組合役員経験者で川越工場から他に配転された者が今日まで小川のほかにいないとしても、このことは本件配転を異例とする特段の根拠になるものではなく、かえって、旧執行部派の役員経験者あるいは活動家を狙い打ちにした不利益配転が一般的には行われてこなかったことを示すものといえる。

そして、本件配転が旧執行部派の勢力に影響するものであったことは前記のとおりであるが、旧執行部派が本件配転後にも従前とほぼ同様の勢力を維持し、活発な活動を続けた事実からみると、本件配転が直ちに旧執行部派の活動に著しい障害を生じさせることが明らかであったとは認められない。また、被控訴人が全社的な人事異動の一環として浜松出張所の営業担当者を増員すべく人選基準を定めて小川を含む五名の候補者につき検討を始めたのは昭和五六年六月下旬ころであり、来たるべき組合役員選挙に小川が立候補する資格を失わせるために殊更に配転を計画したものであると推認するには十分でない。

3  小川に対する本件配転の内示後に被控訴人が試みた熱心な説得の状況は前記のとおりである。一般的にいえば、業務上の必要に基づく配転について、その対象者が不承諾を申し出ても、できるだけ説得を重ねて予定どおり配転を実施しようとすることは、企業として当然であり、また、不承諾の理由とされている家庭事情等について、少しでもその不利益を緩和する優遇措置を提示して承諾しやすいように配慮することも、不自然なことではない。

被控訴人の立場からすると、小川を説得して配転を承諾させても、これに対して不当労働行為の救済申立をする旨を小川が表明していたのであるから、事態が穏便に収まる見通しがあったわけではなかったし、他方、小川を排除する手段として本件配転を計画したのであるならば、内示後の小川の強硬な対応からして、配転命令拒否を理由に懲戒解雇を行うことも十分考えられたところである。

これらの点に照らすと、本件配転について被控訴人のした前記説得が、業務上の必要を達する目的から行われたものではなく、小川を組合から排除することを主目的に、異例の条件を提示してまでも配転を承諾させようとしたものであると推認することは、必ずしも合理的とはいい難い。

五  以上の認定を総合すれば、本件配転を実施する被控訴人の業務上の必要性は、それ自体としては、これにより小川の被る不利益を斟酌しても、本件配転をやむを得ないとするに足りるものであり、これと対比すると、競合的に存在した被控訴人の不当労働行為意思、すなわち小川の組合活動を嫌悪し同人を組合から排除して旧執行部派の勢力を減殺しようとする意思が、右業務上の必要性よりも優越し、本件配転を行うに至らしめた決定的な動機であったとするには、なお客観的、具体的根拠が十分でないといわざるを得ない。

そうだとすると、本件配転につき被控訴人に反組合活動の意思があったとしたとしても、それだけで本件配転を労組法七条一号の不当労働行為に該当すると認めることはできないというべきである。

第六本件再配転と不当労働行為

次に、本件配転が右のとおり不当労働行為に当たらないことを前提として、本件再配転の不当労働行為性の有無について判断する。

一  本件再配転は、本件配転の際に被控訴人から小川に約束されていた条件(二年間の浜松出張所勤務の後は狭山市の自宅から通勤できる事業所に配転すること)の履行としてなされたものである。右の通勤可能な事業所としては川越工場及び東京営業所の二か所しかなかったが、本件再配転当時、川越工場からは係長職一名の増員要請が出されていただけであるのに対して、東京営業所では営業担当者一名を増員する必要があり、その増員要請が承認されたため、小川をこれに当てることになったものである。この点に関する参加人の主張を採用できないことは原判決一九六頁二行目(66頁4段19行目)から二〇〇頁九行目(67頁3段16行目)までの説示のとおりである。また、被控訴人が川越工場のいずれかの部署に小川を配転するよう人事上の調整を行わなかったことをもって不当ということもできない。

そして、本件再配転により、小川の遠隔地単身赴任に伴う私生活上の不利益は解消された。

二  本件配転後においても、旧執行部派は、それまでとほぼ同様の勢力を維持し、被控訴人が実施しようとした完全週休二日制、ミッション生産部門への交替制勤務の導入あるいは労使協調を旨とした新労働協約締結の提案等に対し、反対活動を行っており、被控訴人の敵対的存在であることに変わりがなかったと認められる。

しかし、本件再配転当時の趨勢として、被控訴人主導による労使協調路線がほぼ定着し支配的になっていたことは否定し難いところであり、このような状況と右一の事実を考えれば、本件再配転に当たり、被控訴人が小川を川越工場に配置することができたにもかかわらず、川越工場でのその組合活動を嫌悪し、旧執行部派の勢力が増大するのを押さえる意図で、あえて東京営業所に配置したと認めること、すなわち、被控訴人の反組合活動の意思が本件再配転の決定的動機になったと認めることは、困難であるというほかない。

結局、本件再配転についても、労組法七条一号の不当労働行為に該当するとの証明は十分でないというべきである。

第七結論

以上の次第で、本件配転及び本件再配転が不当労働行為に当たると認めることはできない。したがって、これを不当労働行為として救済を命じた控訴人の本件命令は取消を免れない。

右と同旨の原判決は相当であり、本件控訴は理由がないので、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤繁 裁判官 岩井俊 裁判官 坂井満)

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